トラヴィス『インヴィジブル・バンド』
なんとなく、茫然と、音楽界の未来を、考えてみる。
今は、インターネット社会の到来や、コロナ騒動の中で、音楽業界が瀕死の状態に置かれているという見方が、あるように思うが…。
そうなのだが、決して音楽の未来は暗くない、というのが、私の漠然とした展望なのだが、一般的にはどんな感じなのだろうか…。
最近、ようやくサブスクというものを、暮らしの中に取り入れてみた。Spotifyというやつだが、使ってみて、その便利さというか、そのあけっぴろげさに、軽く血の気が引きました。
「これ、CD買う必要ないじゃん。」
いや、勿論、サブスクを認めていないミュージシャンもそれなりにいるようで、何でもかんでも無制限に聴ける、という程ではないが、それにしてもなぁ、である。
かつて、レコードに、CDが取って代わったように、今はCDが別のメディアに取って代わられようとしているのであろうか。
音楽界の、茫洋とした未来…。
…こんなところに、コロンブスの卵のような、あっと驚く発想の転換による、ビジネスチャンスが転がっているような気がしてならないのだが…。
今回は、とても短いブログです。ちょっとした、話題の提示です。どうも、これからは、このような話題が多くなってくるのかもしれません。これからの音楽業界を横で見てると、面白いほどの変化が起こるかもしれないです。…と、音楽業界の中にいる私は、すこーしだけ思うのでありました。
以上、含みを持たせて、終わります。
『ザ・ホワイト・ストライプス』
彼らは、ロックンロールを終わらせたのか。
はたまた、新たなロックンロールを創造したのか。
お久しぶりです。
ずっと放置していたブログを、またまた再開させようかと思います。
筆者の気分で進む、このブログ。
またいつ中断するかわかりませんが、なるべく続けていけるように、頑張ろうと思います。
ま、ブログなんて、このぐらいの温度感でもいいのかもしれませんけどね。(ブログを一生懸命書いている人たちに、とても失礼!!)
ところで、私の音楽についての興味の対象は、ジャズとロックが主なものとなります。もちろん、クラシックも、ヒップホップも、J-POPも好きなのですが、どぼっとのめり込むという感じには、なかなかならないのですね。いや、J-POPは3番目くらいに好きだと言えるかもしれませんが…。
とにかく、私はジャズとロックを主に聴くのですが、ジャズに関しては、まだまだ中級者といったところで、これからどんどん掘り下げていく余地が、多分にある分野だと思っているのです。そこが、まだまだ長く楽しめそうなところで、ジャズが気に入っている一つの理由となるのですが、反面、ロックに関しては、なーんとなく終わりが見えているというか、若い頃に聴き過ぎてしまって、どのロックを聴いても、目新しい感動というものが、無くなってきているように感じるのです。
ロックと言えば、ビートルズ、ローリング・ストーンズのいた1960年代、レッド・ツェッペリンやセックス・ピストルズのいた1970年代、U2やガンズアンドローゼズのいた1980年代、ニルヴァーナやオアシスのいた1990年代と、20世紀の後半を鮮やかに彩る、若者文化の一大センセーションだったわけです。
じゃあ、21世紀は???
ロックは、果たして、21世紀にも、そのメッセージ性が通用する音楽たり得るのでしょうか。
ここで登場。今回の主役、ザ・ホワイト・ストライプス。こいつらのシングル・デビューは、1998年。今回紹介するこのデビュー・アルバムの登場は、1999年である。20世紀も終わりの終わり、もうはなから21世紀に活躍することを目標として結成されたような、ロックバンドなのである。
で、こいつらが登場したときに掲げられた、スローガンというか、キャッチフレーズが、「ロックンロール・リヴァイヴァル」というものであった。同時期にデビューした、ストロークスなどと同様に、ロックの初期衝動を音にしたようなその音は、ビートルズはおろか、1950年代のチャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーといった、ロックンロール創始者らを彷彿とさせる音楽であったのだ。
しかし、その音を、21世紀に鳴らす必要性は、本当にあったのであろうか。彼らの奏でた音楽は、ロックの未来にとって、本当に輝かしいものであったのだろうか。
温故知新という言葉がある。故きを温ねて新しきを知る。新しさだけを追い求めて、中身がスカスカなものを作るより、古く時代に洗われたものを深く研究し、その中から今の時代に通用する、フレッシュなものを産み出す、といったような意味だが、彼らの音楽を聴いていると、この四文字熟語が、頭に現れて仕方がないのである。
いつの時代も、ロックは、目新しさを求めて、発展してきた。
サイケデリック・ロック、ハード・ロック、パンク・ロック、オルタナティブ・ロックと、それらのロックは、驚きとともに、新しい時代を象徴する音楽となってきたのだった。しかし、21世紀という新しい時代に現れたロックは何だったかというと、「リヴァイヴァル」、である。日本語では、焼き直し、とでも言えようか。
確かに、解る。楽器が電気楽器になり、コンピュータが登場し、音楽をどんどん刷新していかなければならなくなった息苦しさ。その中にポンと現れた、「もっと昔に戻ろうよ。」という精神。
わかる。わかる、が、本当にそれで良かったのか。それしか、無かったのか。その答えは、2000年代、2010年代のロック音楽を見れば、明らかなのかもしれない。つまり、それしか、無かったのだ、ということ。ロックはこれ以上刷新できず、もう一度昔に戻って、同じことをやっていくしかないのだ、ということ。
ただ、そこにわずかだが希望があったのである。
それを証明してくれたのが、やはりこの「ロックンロール・リヴァイヴァル」の旗手たちだったのである。
つまり、過去の研究は、これからの時代、絶対に必要になってくる。そこに、現代の感性をプラスした、新しい作品を作り上げることが、これからのロックの未来そのものなのである。それは、歴史を踏まえて、新しい時代を生きていこうとする、人間の本来あるべき姿そのものだったのである。
すなわち、1990年代までは、ロックという音楽が、あまりに新しすぎた。過去を求めず、新しさのみを追求する初期衝動そのものが、ロックという音楽の本質であった。
しかし、21世紀に入って、初めてロックにおける視点が、過去に向けられたのである。それは、後退とか、そういうことではなく、成熟なのである。過去のロックの成功、失敗を、今はロックの歴史として、見ることができる。そうした土台の上に、成熟しつつも、本当に新しいロックを作り出すことが、可能となる時代が来たのである。
現代の音楽産業は、一つの転換点に居る。レコードに取って代わった、CDというメディアでさえも、一昔前のものとなってしまいそうな、アーティストにとって先行きの見えない、不安な時代に入っていると思う。今までの価値観が、通用しなくなってしまうような、時代の変革する感覚を、ここ何年かで感じ取っている人は多いだろう。
しかし、このようなときに最も役立つのは、過去の教えである。歴史が浅いと思われる音楽産業でさえも、過去の偉大なアーティストや音楽関係者たちによる、膨大な経験の蓄積が残っている。そこから学べば、きっとこの変革の時代も乗り越えて、新しい明るい時代を迎えることができるように、思う。
冒頭の疑問に対する、私の回答です。
ザ・ホワイト・ストライプスは、ロックンロールが死にそうな時代に、次の時代のロックを産み出し支えるための、新しい土台に、自らなったのだ。
Frank Harrison Trio『First Light』
2000年代の、音。
最近、ジャズをよく聴いている。ジャズと言っても、わりかし新しい2000年代前後のジャズを、よく聴く。
自分で言うのもなんだが、最近の音楽を聴こうと思い立つことは、自分にとって良い傾向だと思う。
私は、昔の音楽を好んで聴く傾向があった。音楽の聴き始めは、ジャズではなく、ロックやポップスであったが、周りの同級生たちが、日本の最新のヒットチャートを追いかけている時に、私は、U2やQUEENを追いかけていたのである。追いかけていた、とは言っても、追っかけをやる程ではなく、CDを買って聴く程度だったが、私の音楽の興味の中心は、完全に一世代前の音楽だったのである。
私が思うに、昔の音楽ではなく、今現在の音楽を追い求める時期というのが、音楽を好んで聴く時期を持つどんな人にもあるのであり、その今の音楽を聴いている時期というのが、その人の人生において、好調である時期なのではないか、と思うのである。
言うなれば、自分のその時の感性と、時代の感性とが一致しているということであり、時代の流れに乗って生きていかなければならない人間にとって、サービス・タイムとでもいうべき時間なのではないか、と言えるのではないか。
とはいえ、私が今中心的に聴いている、「2000年代の音楽」というものも、もう10年以上も前の音楽であるから、それほどヒップな音楽とは言えないのかもしれないが、私にとっては十分に新しい刺激を受けているところなのである。
実はちょっと前に、完全に今のジャズ、完全に現在進行形のジャズを、発掘するようにむさぼり聴こうかと思ったりもしていたのだが、ちょっとまだその段階に行くまでの勇気がないというか、やっぱりある程度でも評価の定まったものでないと、お金も持たない、という状況なので、10年程前くらいのものが、今の自分には丁度いいのかな、と思っているのであります。
評価の定まった昔の音楽というのは、勿論聴いていて心地の良いものが多いのだが、一抹のつまらなさを抱えた音楽だという思いが、私の中には、ある。今までの私の音楽の聴き方が、まさしくそのようなベクトルであったのだが、他人の評価を当てにして、その音楽に接するということであるから、音楽との奇跡的な出会い、という面では、そのような喜びは薄れるのかもしれない。
しかしいわゆる「名盤ガイド」のようなものに載っている音楽を数多く聴いてきて、そのような音楽を聴き込むことの良い点というものもある、というのが私の持論である。
それは、どういう音楽が、多くの人に求められ、どのような音楽が、多くの人に疎まれるのか、ということがわかってくる、ということである。
音楽なんて、好きな音楽だけを、ただ聴いていればよいのだ、という声もあるだろうが、ビジネスマンが毎日、新聞を読むように(読まないか?)、多くの人がもっと、今の音楽に触れるべきだと思うのです。先程少し述べたように、音楽は今の時代の気分を反映するものであり、時代の流れに乗って生きていく社会人にとって、音楽を聴かないというのは、時代に取り残される可能性が高くなることだと思います。
よく、時代の音楽の聴き手の中心として、中高生が挙げられると思いますが、社会人ももっと、その時の音楽に触れていくべきだと思うのです。
先程「名盤」について軽く触れましたが、数多の「名盤」は、その時代の雰囲気を作ったものであり、そのような音楽が、その時代の社会の気分を形成した、ということがわかってきます。そういうことがわかってくると、現在進行形の音楽を聴いた時、「ああ、今の時代はこういう気分で進んでいるのだな」ということが、掴みやすくなると思います。音楽と時代の相関関係が、判ってくるのです。
どうも、世の中の社会人は、歳を取れば取る程、今の音楽と疎遠になっていく傾向があるようなのですが、もっともっと現在の音楽を聴いて、時代を読み取る感性を磨いていってほしいと思うんですけどね~。
最後になりましたが、CDのレビューを。
輸入盤しか発売されていないので、情報は少ないのですが、ピアノトリオによる演奏です。静謐な空気の中に、緊張感のある音が立ち込められ、美しい音色と共に音楽が繰り広げられていきます。
夕時から夜にかけて聴くと、気持ちがクールダウンされて、いいと思います。
このような美しい音楽と出会える限り、私は今のジャズを聴き続けていくと思います。
ブギ・ダウン・プロダクションズ『クリミナル・マインデッド』
ヒップ・ホップの存在意義とは…。
ここ最近になるまで、私はヒップ・ホップというものが、どうしてもわからなかった。ヒップ・ホップは「悪い」感じがして、どうしてもとっつきにくかったのである。
私の最近の興味の中心はジャズにあるが、学生時代からの私の音楽の核は、常にロックにあった。で、一般的なイメージとして、ロックも「悪い」音楽だという認識がなされていると思う。世間の価値観に反逆し、嘘や欺瞞で成り立つ世界をひっくり返そうとするロックというものが、若者の心を捉え、いわば若者を扇動する音楽として成り立っている、と私は認識している。
ロックは、社会に迎合できない若者や、外れ者の音楽であり、言ってみるならば、弱者のための音楽である、と思う。精一杯奇抜なファッションをしたり、キンキンに高い声を振り絞って歌う姿は、「悪く」見せるようでもあり、そのようにすることで、相手を威嚇しているように見える。
ロックの「悪さ」は、振りの「悪さ」であり、そうすることでしか自己主張することができない、不器用な「悪さ」なのではないか、と思う。
一方、私が以前からヒップ・ホップに抱いていた印象は、「本物の」「悪さ」であった。いかつい黒人が「悪い」ことをするときのバック・ミュージック。黒人は肉体的な強さは、世界最強であり、ヒップ・ホップはそういう強者のための音楽である、と思っていた。
つまり、まとめると、ロックは弱いものが精一杯強がって演る音楽だから格好いいのであって、元々強いものがその強さを音楽で表現するヒップ・ホップの、どこがカッコいいの?なーんて思っていたのであります。
私はまだヒップ・ホップを俯瞰しきれていませんが、何とも視野の狭い音楽観だったと思います。
今回紹介するアルバム・タイトルは、『クリミナル・マインデッド』。日本語訳すれば、『犯罪的心理において』といったところでしょうか。
黒人による、暴力などによる犯罪は、後を絶たないと言います。一方で、黒人に対する差別も、未だ無くならない、と言います。
彼らも、「弱き」存在なのです。ラップで矢継ぎ早に繰り出される言葉は、日々積み重なっていく、社会への不満が、そのまま出てきたに過ぎません。彼らはマシンガンのような言葉の羅列を発することで、社会に「No.」を突き付けているのです。
私は大学生の時、興味本位から、「犯罪論」という講義を受講しました。その冒頭で、講師が言った言葉を、私は今でも覚えています。それは、「刑法は、愛の学問である。」というものでした。
子供の頃から、肌の色が違うというだけで、差別を受ける。不満がたまるのは、当然です。中には、それが爆発して犯罪というものに繋がってしまうこともあるでしょう。
彼らも闘っているのです。数多のロックンローラーが投げつけた、社会への反発心というものを、ヒップ・ホッパーたちも同じく持っているのであります。
強き者も、弱き者も、みんなが肩を組み合って築き上げていく世界。そんな世界が来ることはまた夢の夢なのかもしれませんが、そんな夢がある限り、ロックンロールもヒップ・ホップも、無くならないのだと思います。
今回紹介した、ブギ・ダウン・プロダクションズの『クリミナル・マインデッド』は、1987年に発表されたアルバムで、その後のラップ・カルチャーの方向性を決定した重要なアルバムです。私なんかは、凄い男っぽい、黒っぽいアルバムだなあ、と思ったのですが、そういう潔く世界を切り開いていくような感じが、とてもかっこよく感じました。ヒップ・ホップ入門としても、最適だと思います。是非お手元にどうぞ。
小沼ようすけ『Jazz’n’Pop』
ニッポンのジャズ・ギタリストです。小沼ようすけ。
私は、この人の奏でる音だったり、醸し出す雰囲気が好きです。
一度、この人の演奏を、生で見たことがあるんです。ピアニストの塩谷哲さんとデュエットするコンサートだったのですが、塩谷さんが観客の笑いを誘いながら軽妙にトークをされるのに対し、小沼氏は朴訥と、自分の世界に入り込んでいるかのように話されるので、その姿を見て観客がクスクスと笑う、というような感じでした。
ちゃんと自分の世界を持っているのですね。
このアルバムは、タイトルの通り、どの曲もポップであり、実際に、マイケル・ジャクソンやU2のカヴァーをした楽曲も、演奏されています。
ジャズ・ギターというと、ともすると聴き手を選ぶ、敷居の高い音楽になってしまいがちな面があるということは、否定できません。ジャズにおけるギターの音は、言ってしまえばあまり華やかではないものが多いですし(私はそう思っています)、比較的地味な音楽になってしまいがちな楽器だと言えると思います。
しかし、小沼氏、持ち前のセンスの良さなのか、彼の紡ぎだす音楽は、ポップで、華やかで、わかりやすい音楽と言い切れます。音楽を聴く喜びというものを、十分に感じさせてくれる、聴き手を選ばない音楽だと思うのです。
と、同時に、彼の音楽は、とても日本的だな、と感じるのです。ギター演奏ですから、勿論ヴォーカルは入っていないのですが、他の国のジャズ・ミュージシャンと比較して、日本的な感じを受けてしまうのは、何故なんでしょう。小沼氏の奏でる音楽は、あたかも日本語をしゃべるかのように、日本人にとって聴きやすい音楽である、と思ってしまうのです。
私は、アメリカなど、海外のジャズ・ミュージシャンの音楽を好んで聴きますが、日本のジャズ・ミュージシャンの音楽を聴くのも、割と好きなんです。その上で感じるのは、やはり海外のミュージシャンと、日本のミュージシャンは、奏でる音楽の「音」が違うな、ということなのです。
それは、日本の風土や文化、社会や言語、地形や気候など、日本を形作る様々な要素が、日本人の精神性に影響を及ぼしている証拠なのだと思います。同じ要素の影響を受けているミュージシャンの奏でる音楽は、同じ土地で育った聴き手には、自然と入ってくる音楽となるのでしょう。
確かに、私が海外のミュージシャンの音楽を聴くときは、その音楽の背景にある、自然や文化、社会などを想像しながら、音を聴くことが多いように感じます。日本とは違うそのバックグラウンドは、どのように構成され、形作られているのか。そのような想像力をもって音楽と接することは、ただ単に音楽理論的、音響的効果を超えた、大きな広がりをもって、私たちの耳から脳にまで届いていくものなのだと思います。
…とまあ、大きな話になりましたが、この小沼氏のような、日本人らしさを海外にまで発信できる人というのは、とても貴重な存在だと思うのです。小沼氏は、旅を生活の一部としている方のようで、小脇に抱えたギターで、もっともっと日本の良さを世界に広めていってほしい、と感じてしまうのであります。
私も趣味のギターを、彼に少しでも近づけるように、頑張っていきたいと思います!
ジョシュア・レッドマン『ムード・スウィング』
今回は、ジョシュア・レッドマンです。ジョシュア・レッドマン…、ご存知でしょうか?
突然ですが、モダン・ジャズの歴史は、マイルス・デイビスと共にあった、と言っても過言ではありません。クール・ジャズを産み出し、ハード・バップ、モード・ジャズを牽引し、フュージョンにも先鞭を付け、ジャズ・ファンクにも手を出し、遺作ではジャズとヒップ・ホップを掛け合わせるなど、マイルスは、モダン・ジャズの歴史、そのものなのであります。
そのマイルスの遺作が、1991年発表の『ドゥー・バップ』なわけですが、同年、彼はこの世と別れを告げることになります。ジャズの、一つの時代が終わったといってよいでしょう。
その翌年の1992年に、ジョシュア・レッドマンは、ファースト・リーダー・アルバムを録音します。それが、1993年にワーナーから発表される『ジョシュア・レッドマン』なのですが、今回紹介するのは、1994年発表の、彼のサード・アルバム『ムード・スウィング』です。何故このアルバムなのかというと、参加しているメンバーが、物凄いからです。
ジョシュア・レッドマン(saxophone)、ブラッド・メルドー(piano)、クリスチャン・マクブライド(bass)、ブライアン・ブレイド(drums) 。
「90年代の黄金カルテット」と呼ばれる、鉄壁の4人による、演奏です。これら各々のメンバーは、その後、ジャズ界で大活躍する人たちばかりで、この26年後の2020年に、再びこの4人で結集したアルバムが発売されたときは、大歓迎をもって称賛をされたものです。
私は、ここに挙げた4人、ひいては、ジョシュア・レッドマンこそが、マイルス・デイビスの不在を埋める、新時代のジャズの牽引者だったと言い切りたいと思います。
彼の奏でる音楽は、一聴すると、古典的なモダン・ジャズの語法に則って、淡々と演奏されるジャズ音楽。しかし、過去のジャズとは違う、新たな時代のきらめきが、その音楽には宿っています。その音楽は、伝統を感じさせると同時に、時代を切り開いていく冒険心に溢れているのです。
彼は語ります。
「ジャズの世界では激しい戦いが起きている。「伝統」と「革新」、すなわち「過去」と「未来」、「昨日」と「明日」が、互いに牽制し合い、罵りあっている。一方が他方を受け入れず、必ずどちらかでなければいけない、と主張し合うのである。しかし、それは間違っている。ジャズの精神は、「今日」にある。過去や伝統ばかりを崇拝するのではない、ひいては、未来や革新ばかりを持ち上げるのでもない。過去を十分尊重し、未来に向けて新しいものを作り出す気概を持ちながら、「イマ」の音楽を奏でる。それこそが、ジャズの「インプロヴィゼーション」の精神なのだ。」と。
この言葉に、彼の音楽の精神が、見事に表れていると思います。彼は、過去を否定していません。しかし、目新しいものばかりを追い求めているのでもありません。マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンなどの先達の業績に敬意を表しつつ、新時代の音楽を奏でようと、より良い「イマ」を表現することに全てを掛けているように感じるのです。
私は、彼のこのような姿勢に尊敬する気持ちを持ちますし、同時に今までもやもやとして輪郭がはっきりと掴めなかった「ジャズ」という音楽が、どういう音楽なのかということを、彼の言葉と音楽を通して、はっきりと知覚することができたように感じます。すなわちジャズとは、「イマこの時」を奏でる音楽、であったのであります。
この「ジャズの精神」は、日々の生活における、様々な場面で必要とされる精神だと思います。つまり、「一瞬の判断」のことです。どんなに歴史を勉強しても、どんなに流行を追いかけても、一瞬の判断ミスにより、人生がどん底に落ちてしまう危険性は、誰にでもあります。一瞬の判断が全てを決める、という場面は、人生において何度か出くわす場面であると思われます。その時に勝敗を決めるのは、どれだけ過去を分析したか、ということなのかもしれません。若しくは、どれだけ時代より進んだ考えをしてきたか、ということなのかもしれません。
しかし、「一瞬の判断」を、どれだけ多く経験してきたか、それが一番の対策であると思います。ジャズに限らず、音楽の発表の場を与えられた人は、そのような経験をすることが多いでしょう。また、スポーツの世界でも、そのような場面は多々出くわすものであると思います。若しくは、受験競争を乗り越えてきた人も、このような経験をしてきたと言えると思います。
何でもよいのです。若いうちから、どれだけ心がヒリヒリとするような、切羽詰まった状況を、乗り越えてきたか、ということなのです。それを乗り越えるには、必ず「一瞬の判断」が必要だったに違いありません。
「ゆとり教育」なんて言っている場合ではないのです(死語ですが)。かわいい子には旅をさせるべきであり、獅子に至っては我が子を千尋の谷に突き落とすのであります。
ジョシュアのような「イマ」を表現するには、日頃からの鍛錬が不可欠であり、それは子供の頃から鍛錬するべきものであり、同時に死ぬまで鍛錬し続けていかなければならないものでもあります。どうしてそんな辛いことを…、という見方もあるかもしれませんが、そのような「イマ」を表現できてこそ(別に表現することに限りませんよ)、人生における真の幸福を、味わうことができるのではないか、と思うのです。
長くなりました。ちなみに言っておくと、ジョシュアは1991年にハーバード大学を成績優秀者として卒業しており、父親は、オーネット・コールマンやキース・ジャレット等と共に名盤を作り上げた、息子と同じくサックス奏者のデューイ・レッドマンなのです。育ちがいいというか、羨ましいというか、「もってるな~」と感じてしまうのでありました。
以上。
Break Time 8
これまた久々にやって来ました。ちょっと息抜きBreak Time。
今まで7回程Break Timeをやってきて、日々のよしなしごとを自分なりに深く考察してみる、みたいなことをずっとやってきたわけですが、まあ基本的にはその路線を踏襲しながらつらつらと書いていきたいと思います。
最近ふと思ったことがあります。人と会話をしていて、よく出てくるフレーズがあるな、ということです。それは、「休日は何をして過ごしているんですか?」というものです。
答えとしては、「街をぶらぶらしてる」だとか、「本屋で立ち読みしてる」だとか言っているのですが(まあ、実際そうなのですが)、なんかもっといい返答はできないものか、すなわち、「いい休日の過ごし方みたいのは無いのか?」という壁にぶち当たりました。
そんなの人それぞれでいいじゃないか、という声もありそうですが、なんか万人に共通する、「いい休日の過ごし方」の一般解のようなものは、果たして導き出せないものだろうか?という欲求に駆られてしまったので、今回はこのことについて、考察します。
まず、大方の人が、休日をどのように過ごしているか、ということですが、色々挙げてみます。趣味(読書、映画、スポーツ、ゲームなど)、ショッピング、旅行、勉強など、でしょうか。あ、あと、ネットやスマホというのも、今日の王道でしょうね。
次に、誰と過ごすか、ということですが、家族、友達、恋人、若しくはサークルなどの面々、若しくは一人で、といったところでしょうか。
…例えば、こういうのはどうでしょう?
平日の仕事で疲れていて、休日は一日中寝ている。
…さみしいですね。なんだかこれは、「いい休日の過ごし方」に当て嵌まらないような気がします。何故、そんな気がするのでしょうか?
多分、「休日」が「仕事」に従属してしまっているからだと思います。「仕事」の疲れで、「休日」は寝ることしかできない。「仕事」を「休日」にまで引きずってしまっているのです。これは、大変よろしくない。
やはり休日は、あまり活動的でない人でも、有意義に過ごしたいものです。
なんで、有意義に過ごした方が、「よさげ」に思えるのか。
スポーツをしていれば、溌溂としたイメージがあり、読書をしていれば、思索的なイメージがあり、ショッピングなぞは、ファッションものだったら、センスを磨くような感じだし、日用品を買うとしても、それは日々の生活を「彩る」のに必要だからです。
「休日」にそういう「彩り」があった方がいいと思えるのは、何故なのか。それは、こういうことなのだと思います。つまり、「仕事」をしている時のその人から得られる感じは、「休日」に過ごしている時の「彩り」をもって印象付けられるからなのだと思います。「休日」にスポーツをしていれば、「仕事」中に溌溂としたイメージが、「休日」に読書をしていれば、「仕事」中に思索的なイメージが、「休日」にショッピングをしていれば、「仕事」中にセンスの良さが垣間見られる、という寸法です。
もし「休日」を友達や恋人と過ごしているとしたら、その人は「仕事」中には、人との関係を大切にする人だと、評価されているでしょう。
逆に、もし休日の一日中寝てしまっている人がいたとしたら、その人の仕事での印象は、「無彩色」、全く味気無いものとなっているでしょう。
しかし、仮に仕事が本当にきつくて大変で、大事な休日がすべて睡眠に費やすしかない状態が長く続いてしまうようだとしたら、それはその人にとって「赤信号」だと思います。その仕事が本当に続けるべきものなのかを、一度じっくりと検証した方がいいように思います。仕事がその人の度量を超えてしまっている証であり、仕事で体を壊してしまっては、身も蓋もないからです。
こう見てくると、「休日」の過ごし方は、「仕事」での活躍の度合いのバロメータ。精力的に「休日」を過ごせる人は、「仕事」でも精力的に活躍できるのだと思います。
………もしかしたら、私に休日の過ごし方を訊いてきた人は、私の仕事中の印象が良くて、それでどんな休日を過ごしているか興味を持ったのかも………。わからないですけどね。自分にいいように解釈していますが…。でもそうだといいなあ…(笑)(終わり)