アンクル・チャッキーの名盤紹介

私が名盤だと感じるCDアルバムを、次々と紹介していくブログです。読者様の心のどこかに引っ掛かって貰えれば、嬉しいです。

村上”ポンタ”秀一『30 YEARS ANNIVERSARY MY PLEASURE』

このブログ、3回目の登場、村上”ポンタ”秀一氏。彼はドラマーですが、このアルバムは基本的に、日本で売れている歌手たちを迎えて名曲をカバーさせ、その後ろでポンタが叩く、というコンセプトのアルバムである。

 

福山雅治の歌う「帰れない二人」、吉川晃司の歌う、「飾りじゃないのよ涙は」など、聴きどころはたくさんあるアルバムだが、今回取り上げるのは、女性2人組ユニットKiroroの歌う、「YOU’VE GOT A FRIEND」である。

 

本当は、「YOU’VE GOT A FRIEND」の収録されている、かのキャロル・キングのアルバム、『つづれおり』を紹介しようと思ったのですが、その名盤度を前に目が眩み、とても書けないな、と思ってしまったので、敢えてちょっとランクを下げて、紹介する、という次第であります(ポンタさん、ごめんなさい!)。

 

邦題「君の友だち」。Kiroroは、沖縄のとある高等学校の同級生であり、まさに、「友だち」同士である。

 

女同士の友情…。男性諸君、想像したことが、あるだろうか。私は、一瞬想像したことがあるのだが、まるで水平線の向こうをずっと眺めているような、気の遠くなるような行為なので、すぐに力尽きてしまった。そこを今回、出来る限りの力を振り絞って、再度チャレンジしてみようと思う。

 

まず、子供同士の時、女の子というのは、群れたがるのを、男も当然目にしたことがあるだろう。では、大人になってからは、どうなのか?子供時代の友情というものが、続くものなのだろうか?

 

頭痛て。

 

大人になれば、女には、大半が、男というものが出来る。で、女は能動的になるかというと、そうはならなく、受動的になっていくと思う。男が、基本リードするからである。

 

受動的になった女同士が、声を掛け合うことは…、無くなる!?女の友情は、続かない!?

 

意識が朦朧と…。

 

逆に言えば、フリー同士の女同士は、友達になれる可能性が高く、更に言えば、能動的である男を作りにくくする、足を引っ張り合う関係になるのではないか?

 

これ、今までのブログで、一番きついよ。誰か、ヘルプ。なんかいい落とし所に辿り着きたいんだが。今、夜、書いてます。もう頭が限界です。お休みなさい。また明日。

 

 

…おはようございます。頭も少しクリアになったので、書き続けようと思います。

 

いい落とし所に辿り着きそうです。結局、女が強くなれば、いいのです。

 

女が強くなると、どうなるか。優しくなります。ちなみに、男が強くなると、どうなるか。怖くなります。

 

女の友情というものは、実はとても成り立ちやすいものなのです。強い女同士は、優しさで結びつくのです。一方、強い男同士は、反駁し合います。男というものは、孤独な生き物なのです。

 

今回は、女の友情に関してがテーマなので、これ以上は、書きません。

 

下手なことは書けません。すいませんが、これで失礼します。

 

 

 

イーグルス『イーグルス・ファースト』

本当は、イーグルスなんて、書きたくないのである。

 

でも今、とても、どれかしらのアーティストの、デビューアルバムを紹介したくなってしまった。で、その時、真っ先に浮かんだのが、「イーグルス」。

 

なんで書きたくないのかというと、このバンド、甘々なんですよ。甘々で、自己陶酔に浸っているかのような音楽。うわ、書いてるだけで、もぞもぞする。

 

でも、このバンド、本当にものすごい結果を残しているバンドなんです。アルバム発表だけ見れば、1972年から、1979年までの、8年間しかない活動期間。1976年には、『ホテル・カリフォルニア』という、ロックの古き良き時代に自ら終止符を打つ、大傑作アルバムを作り、全世界で4,000万枚以上も売り上げる、大ヒット。その他のアルバムも傑作揃いで、名曲が数多く含まれているので、それら名曲だけを集めたベストアルバムが、また4,000万枚以上の売上。それに便乗して、後期の名曲だけを集めたベストアルバムを売り出してみたら、それも1,000万枚以上の大ヒット。解散後、1994年に再結成し、その時売り出したアルバムが、また1,000万枚以上の大ヒット。

 

こいつら、何者?

 

これだけ売れているんである。実力があるのである。はい、認めます。実力があります、このバンド。

 

そのバンドの、デビューアルバム。はっきり言えば、地味なアルバムである。勿論、「テイク・イット・イージー」などの名曲も収められてはいるのだが、下に表示されているジャケットも含めて、全体の印象は、「地味」。とても後に、全世界で軽く1億枚を超すアルバム売上をもたらすバンドの、デビューアルバムとは、思えない。

 

ただ、印象がいい。後に襲ってくるような、ゴテゴテした自己陶酔感が、一切無い。実に爽やかな、アメリカ西海岸の風を思わせる、「なんかいい」と感じさせる、好盤だと思うのである。

 

結局、どんな人も、その始まりは、爽やかなのである。会社の新入社員、フレッシャーズ達は、その会社に、とても爽やかな、通り抜けのいい風をもたらす。そうやって、会社は新しい風を一旦社内に取り入れて、社内の空気を一新させるのである。

 

それが、何年も、何十年もその会社にいるとですねえ、滞留していってしまうわけですよ、色んな膿が。皆さんご承知の通り。

 

どうも私は、大学の商学部出身という影響が、自分の中に、色濃く残っているようである。音楽紹介をしているつもりが、いつの間にか、会社批判になってしまうというもの悲しさ。

 

敢えて、会社から、考えを離してみます。つまり、物事の出だしというのは、実に勢いがあって、気持ちが良く、周りの意識にも、いい影響を与える、実に価値のあるものだと思うのですね。そういう勢いのあるものを、早速悪い教え方で教えていってしまった結果生じるのが、「五月病」。…なんだよ、結局会社話になっちゃってんじゃん。

 

しょうがないことなのでしょうか。膿が滞留してしまうのは、避けられないことなのでしょうか。

 

「初心忘れるべからず」。日本のことわざには、いいものがたくさんあります。大人になった今、そういうことわざを心の中で吟味してみると、はっとさせられるものが、きっとあると思います。ことわざって意外と、人生の真髄を突いた、深いものばかりなんですよ。

 

デビューアルバムで、世の中を変えてしまったアルバムも、世の中にはたくさんあります。例えば、キング・クリムゾンクリムゾン・キングの宮殿』、セックス・ピストルズ勝手にしやがれ!!』等。

 

そういう、最初から、超ド派手な印象を残すデビューというものも、世の中にはあるんです。でもその後、キング・クリムゾンは、大将ロバート・フリップの、独裁バンドになってしまった。セックス・ピストルズは、結局その1枚だけで、解散してしまった。

 

最初は、地味でいいんです。フレッシュであれば、いいんです。それが、出だしの本当の良さ、なのです。そして、周りは、そのフレッシュさを、出来るだけ長く守ってあげなければいけません。そうすることで、周りは、そのフレッシュさからの影響を、受け続けることが出来るのです。

 

お互い様なのです。上下関係なんて作ろうとするから、駄目なのです。イーグルスは確か、リーダーなんていなかったはずです。他のアーティストのバックバンドの仲間たちで組んだ、仲良しバンド、と言えば、気持ち悪さを感じなくもないですが、結局はそれが、理想形であるわけなのです。

 

このバンド、よくよく観察してみると、なかなかにカッコいいかもしれないなあ。旧態依然としたロックの世界に、自ら終止符を打つその潔さ。そのおかげで、パンクロックという、次世代のロックが生まれたわけです。

 

でもやっぱり、自分たちの過去に、未練があったのでしょうね。1994年の再結成以来、現在に至るまで、依然として活動を続けている。死ぬまで現役。そういうところも、カッコよさの一つなのかな、と思い始めている、秋の夕暮れでありました。

 

 

 

 

エリック・クラプトン『アンプラグド』

エリック・クラプトンは、この広いロック世界で、最も波乱に満ちたロック人生を送った人なのではないか。

 

今は、ソロ活動オンリーだが、過去には数知れないバンドに参加しており、そのどれもが、超一級品。私生活の面でも、友人の妻をもぎ取って自分の妻にしたり、コカインに溺れたり、自分の息子を亡くしたりして、もう見てるこっちにも、息をする暇も与えてくれないというか。

 

今回の『アンプラグド』。1992年発売で、当時、他のアーティストにも、アコースティック・ギターの弾き語りライブ、「アンプラグド・ライブ」を、一斉に流行らせた、また一時代を築き上げてしまったアルバムである。

 

このアルバムでの白眉は、息子を失ってしまった悲しみを歌った、「ティアーズ・イン・ヘヴン」と、往年の大名曲、友人の妻への熱烈ラブコールソング、「いとしのレイラ」のアコースティック・ヴァージョンの、2曲であろう。

 

敢えて、「いとしのレイラ」を、語ってみるか。この人は、友人、ジョージ・ハリスンの妻を奪ってしまったことについて、何を思っていたのだろうか。若い時は、バリバリのエレキ・ギターで、年を取ってからは、力無げなアコースティック・ギターで、この人は、そのことを、歌っているのである。

 

ギターは、この人にとって、武器であると思う。世の中を生きていくための、武器。武器というものは、相手を傷つけるものです。周りの人を傷つけて、この世でのし上がっていくための、武器。でも、この武器は、諸刃の剣だと、思うのです。周りをずたずたに傷つけながら、自分もずたずたに傷ついていた。だから彼は、一時期コカインにすがりついたのでしょう。

 

自分の武器、つまり、特技のことですね。特技というものは、ある意味、怖いものです。世を渡っていくために必要なものですが、周りも自分も傷つける道具になってしまう。攻撃は、最大の防御と言います。その武器の、防具としての使い方を身につけておかないと、後々大変なことになります。無闇やたらに、子供に特技を身に付けさせるものでは、ありません。

 

高学歴男子、高学歴女子、というのは、ここが危ないのです。あらゆる特技を、身に付けています。周りを傷つけるだけなら、むしろまだいいのかもしれません。自分を傷つけてしまう、それが一番危ないと、私は思うのです。でも、いずれ、解ります。周りを傷つけていれば、いずれ自分が同じ傷を受けるのだということを。

 

高学歴を目指すのであれば、最初から、その武器の諸刃性を理解していなければいけません。それと同時に、それを、自分の防具として扱う術も、身に付けておかなければいけません。大変なことです。本当に、大変なことです。だから、東大というのは、日本一の大学なのです。

 

そのことをわからずに、無闇やたらに子供を東大に入れようとする大人の、なんと多いことか。なんとも無責任な大人達です。

 

学歴で全てが決まる時代は、とっくに終わっています。今時、学歴偏重主義を打ち出している人間なんて、時代錯誤の、時代遅れの、何の価値もない人間です。上に書いたような事柄を理解したうえでの発言なら、あなたドSですね、と言われるだけの話です。

 

高等教育に価値が無い、なんて、微塵も思っていません。世の中を明るくするための、武器であり、「本当に」自分でそれを選び取った者にだけ、それを受ける権利があるものだと思っています。

 

自分の子供を、東大に入れようと思っている、親の皆さん。子供の、「本当の」声を、聴いてあげて下さい。息子さんは、東大に入りたいと言っているかもしれません。それは、本当に、「息子さん自身」の声ですか?「あなた自身」の、声じゃありませんか?

 

 

 

 

 

ザ・フー『マイ・ジェネレイション』

世界最凶の不良を4人集めた、世界最凶バンド、ザ・フーの、燦然たるデビュー・アルバム。

 

そのタイトル・チューンである、「マイ・ジェネレイション」について、語ります。やたらとベースのフレーズが耳に残る、ベースが主役の曲である。というか、個人的には、ベーシストのジョン・エントウィッスルが、このバンドの主役であると考えている。楽曲の下支えをする役割のベースが、一番前面に出てきている。私は元々、このバンドがあまり好きではなかったのだが、その良さが分かってくると、どんどん惹かれていく、なんとも不思議なバンドなのである。

 

「マイ・ジェネレイション」。「僕の世代」。

 

「世代」って何でしょうか。今話題の「Z世代」とか、私なんかは、「ミレニアル世代」に当たるらしいです。

 

上の世代が、下の世代を、押さえつけて、下の世代が、上の世代に、へこへこと従うのが、「いい時代」なのでしょうか。はて?

 

私は、大学の商学部を卒業しました。在学中、経営組織論などというものも、いくつも受講しましたが、はて?という感じでした。

 

在学中の話をします。私の大学では、私の入学早々、教授が、女子の新入生に対し、セクハラ事件を起こしました。はて?という感じでした。教授は、学生に、勉強を教える存在じゃないの?

 

私は、その大学が、一気に嫌いになりました。退学すら考えました。でも、親は言います。「卒業だけはしなさい。」

 

何とか歯を食いしばって、3年留年しながらも、何とかその大学を卒業しました。

 

その教授は、今やその大学の名誉教授です。つい最近、私は、ようやく気付きました。「あの教授は、ちゃんと社会を教えてくれていたのだ。その世代にとっては、名誉ある存在なのだ。」と。

 

と同時に、私は気付きました。こんな世代、駆逐しなきゃ、日本が良くなるわけがない。その教授の世代は、私たちの世代を、挑発していたのです。悪い世代です。でも、それに打ち負かされて、危うく私は退学するところでした。負けるところでした。

 

周りを見渡してみます。同世代を見てみます。上の世代に、へこへこしています。馬鹿な世代です。そうです。「ミレニアル世代」は、馬鹿な世代なのです。この馬鹿な世代が、Z世代に、価値観を押し付けようとしている。Z世代は、すぐに会社を辞めると言います。必死で、私達、馬鹿な世代に対して、抵抗しているのです。

 

下の世代は、上の世代を、打ち負かさなければなりません。私は大学で、下の世代が、上の世代を支える組織のしくみを、教えられました。なんともあくどいやり方です。

 

でも、時代は、確実に変わっています。某テレビ局が、上の世代を守り過ぎて、瀕死の状態に陥っています。上の世代は守ってはいけないのです。必死でみんなで蹴落とそうとしなければならないのです。

 

私も、馬鹿なりに、上の世代を蹴落とそうと、必死です。つまり、上の世代に、へこへこはするのです。でも、上の世代は、悪い世代です。一つ一つ、上の世代の悪い所を弱みとして握っておいて、いつか一気に急襲をかけるつもりです。ただへこへこしてるわけじゃねーんだよ、ばーか。

 

組織とは、下剋上の場所です。殿様に娘を献上していたら、バカ殿になるだけです。そんな組織、辞めたくなるのが当然です。

 

大学とは、勉強を教わる場所ではありません。精神を教わる場所です。悔しいことですが、私はその名誉教授に、社会の精神を、入学早々叩き込まれたわけです。

 

ザ・フーの話に戻ります。ベースは、バンドの中で、一番目立たない存在です。それが、このバンドでは、一番ベースが目立っている。下剋上で成り立っているのです。しかもこの、ド不良の巣窟の中で一番目立ってるんですよ。並大抵のことじゃない。

 

上の世代に対する、やり場のない怒りとともに、いつか下の世代に駆逐される日が来るかもしれないな、と、戦々恐々としながらも、そんな日が来ることを楽しみにしている私でありました。

 

 

 

 

ジョン・レノン『ヌートピア宣言~マインド・ゲームス』

前回の「負け」を、未だ引きずっている、私であります。それを払拭するために、本当は、ジョン・レノン『イマジン』でも書こうと思ったのです。でもそれを書くには、あまりにも力不足というか、蟻が象に歯向かう行為のように思えたので、やっぱりやめました。ただ、あの巨大なぼこぼこした足で、蟻は踏み殺せないと思いますけどね。

 

そこで、せめて、ジョンのアルバムの中でも、特に目立たないこのアルバム、『ヌートピア宣言』に、光を当ててみます。私、何となく好きなんです、このアルバム。冒頭の「マインド・ゲームス」は、勿論大大名曲ですが、他の曲も、なかなかに秀作ぞろいです。例えば、「あいすません」。ジョンが、妻のオノ・ヨーコに対し、ただ日本語で「あいすません」と謝るだけの、とっても情けない歌。

 

ジョン・レノンは、情けない男だと思う。はっきり言う。情けない男だ。

 

そこが、今まで、そして今でも何となく、ジョン・レノンのことが好きになれない理由である。20世紀最高のロックスターとは呼びたくない、私は、この人のことを。

 

情けないが、弱くはないんですよ、この人。ヨーコとともに、フルヌードのジャケットのアルバムを世に出したり、自分の幼少期の痛みを全力で言葉にして叫んだり。大体、自分の弱みを大々的にさらせる人というものは、強い人だということが、世の中の相場である。

 

でもですねえ…、戸惑ってしまうんですね。私はこの人を前にすると。

 

冒頭に戻ります。この人は、「イマジン」という、世紀の大名曲を作り上げました。世界平和を、これほど的確に言い表した曲は他に無く、まさに20世紀最高の1曲です。そんな曲を世に、しかもソロで出したわけです。この人の強さは、半端じゃない。

 

強いです。尊敬もします。でも…。妻に「あいすません」ですよ!?そんな曲を、世に出しちゃうんですよ!?そのセンスがどうも…、はっきり言えば、好きになれないわけです!

 

かっこよくないんですよ、この人。私、ロックスターって、世の中の誰よりも、かっこよくなきゃいけないと思うんですよ。その点、レッド・ツェッペリンとか、ボブ・ディランとか、ジミ・ヘンドリックスとかは、みんなかっこよさがある。ロックは、かっこよさで成り立っている音楽だと言っても、過言じゃないと思う。

 

…敢えて、ジョン・レノンに、かっこよさを見つけてみるか?難しい命題である。でも、どこかその片鱗はある気がする。それが何なのか…。

 

死んだこと?…いや、違うな。この人は、自分のファンに打ち殺されたんだ。あんまかっこよくない。飼い犬に手を嚙まれているだけである。なんだろう。…、ああそうか。分かった。死ぬ前に、子供をこの世に残したことだ。息子、ショーン・レノン。10月9日生まれ。ジョン自身の誕生日と全く同じ日に、ジョンは、自分の息子を授かったのである。

 

ジョンは、自分のことが嫌いであっただろう。これだけ自分を掘り下げる人である。自分の情けなさにも、十分すぎるほど気付いていたのは、まず間違いない。その自分の分身のような子供を、ヨーコに産ませた。敢えて言えばですよ。敢えて言えば、ここに、かっこよさを、感じなくもない、といった程度です。

 

非難してるわけでは、全くありません。先程述べたように、自分のことというものは、自分が一番わかっているものです。人からどうこう言われる筋合いはありません。

 

ただ、また敢えて言いますが、この人を、20世紀最高のロックアイコンに置くのは、もうやめませんか?お父さんなんですよ、この人は、根っからの。その癖に、お父さんを全うせずに、自分のファンに打ち殺されちゃったんですよ?ビートルズでの活動なんて、何の意味もありません。単なる仲間内での馬鹿騒ぎです。ジョンの真骨頂は、やっぱりソロ時代にあるわけですが、………もう何も言いません。

 

私ももし、お父さんになることがあれば、私はまた彼に、ひれ伏すことになるのでしょう。

 

 

BECK『メロウ・ゴールド』

「ルーザー」から始まるこの1枚。BECKのデビュー・アルバムである。

 

この人はなぜ、「俺は負け犬」という言葉から、そのキャリアを始めたのか。それがようやく分かりました。

 

自分が素直に、「負けた」と感じる感覚。何の混じりけもなく、純粋に、「負けた」。そこから広がる地平というものを、彼はまずみんなに伝えたかったのでしょう。

 

前回のニール・ヤングの引き続きのような形になってしまいますが、前回が、「勝ち」の話なら、今回は、完全に「負け」の話です。

 

「負ける」ことの重要性。「負け」を「認める」ことの、重要性と言っていいかもしれません。

 

私個人の話に移ります。私は、「負けず嫌い」です。いつも「勝つ」ことばかり考えて、「負け」そうになった時も、無理やり相手をねじ伏せて、「勝ち」をもぎ取ってきました。下品、失礼、最低。あらゆる罵詈雑言が似合うような、そんな卑怯な「勝ち方」をしてきました。

 

一方で、周りのみんなに対して、常に引け目を感じていました。なんか、自分の一番駄目なところを、常に見透かされているような、でも、それを見せることが恥のような感覚を常に持っていた、というか、とにかく私は、「負け方」を知らなかったのです。

 

しかし、私は、とうとう「負け」ました。「負かし」たのは、誰でもありません。敢えて言えば、「私」です。「私」は、負ける時まで、「卑怯」でした。

 

………、書いていて、自分に嫌気が差したので、改めて書き直します。私を「負かし」たのは、周りの皆さんです。皆さんの「温かさ」です。

 

私は、今までずっと人から、「人の気持ちの分からない奴だ」と言われてきました。「人としてどうか」と言われたことも、一度や二度ではありません。その通りだと思う一方、どこか、常に反発心をもって、その言葉を聞いていました。とにかく、そのことを、心からは認めたくなかったのです。

 

結果、私は、人の痛みの分からない人生を、41年間も生きてしまいました。まさに、「負け犬」人生です。「勝ち」をもぎ取っていたようで、実は私は、常に「負け」続けていたのです。ただ、それを、「認め」られなかったのです。

 

本当は、こんな文章、書いていたくないのです。生来、「負けず嫌い」の私ですから。でも、もう書かないわけにはいきません。これ以上、「独りよがり」の、「独りぼっち」の人生を歩むのは、無理です。そして、私を「独りぼっち」にさせなかったのが、結局、「皆さん」だったのです。

 

BECK、この人、最初から、一人で全てやっています。バンドなんて組んでいません。私は高校生の頃からずっと、この人にシンパシーを感じていました。どれだけはっちゃけても、一人。どれだけ真面目にやっても、一人。私はこの人に、自分を重ね合わせて、聴いていました。そして、重要なことは、そのキャリアのスタートが、「俺は負け犬」、だったことです。

 

結局、私はこれからも、「一人」なのかもしれません。「負け」を認めようが、何をしようが、結局みんな、「一人」なのかもしれません。

 

でも、それを認めなくては、何も「始まら」ないのだ、ということを、BECKは高らかに宣言していたのでした。それで私は、そのことに気付かず、このデビュー・アルバムを、彼のキャリアにおける、「一番嫌いなアルバム」として、位置付けていました。

 

何故、「ルーザー」という1曲が、これほどまでに評価されてきたのか。その意味を、恥ずかしながら、41歳にして理解したわけです。

 

今回のブログは、私の懺悔です。今まで皆さんに、多大な苦労や心配をかけてきて、それにこれからの人生で報いていくために、どうしても必要な行為でした。謝れば済むような話ではないと思っています。まだ人生は半分残っています。皆さんに報いていくために、私は私の人生を、注ぎます。それぐらいでいいのであれば、私はいくらでもやります。元々能力の低い私ではありますが。

 

私の分身。私の先生。昔も今も、私の中で最高にヒップなアーティストは、BECK以外に存在しないのでありました。

 

 

 

ニール・ヤング&クレイジー・ホース『傷だらけの栄光』

ニール・ヤング…。以前、1回だけ紹介しましたね。私は、この人に惚れ込んでいます。ヘロヘロな歌声で、ジャンジャンとギターをかき鳴らすその音に、私はいつでもノックアウトされているのであります。

 

『傷だらけの栄光』。ニール・ヤングの名盤は数あれど、この人の生き様をこれほど正確に言い表した邦題も他に無いと思ったので、今回はこのアルバムを紹介させて頂きます。

 

発表は、1990年。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』、パール・ジャムの『Ten』が世に出る1年前。グランジの真っ盛りの時期と言って、差し支えないでしょう。グランジとは、1980年代の、長髪、ゴテゴテ、ピカピカ、超速弾きのハード・ロックヘヴィ・メタルの反動として出てきた、Tシャツにジーパンという普段着でかき鳴らす、陰鬱なロック、というイメージです。ヤングは、1960年代から活躍している、レジェンド的ロッカーですが、何故か、このグランジの波の中で、やたらと輝いた人物である。実際、パール・ジャムと共演したアルバムも発表しているし、もともとヤングのロック精神は、グランジと共通点のある精神性だったのかもしれない。

 

グランジというのは、先に述べたように、陰鬱な音楽である。80年代の華やかな、「勝ち組」ロックンローラーヴァン・ヘイレンボン・ジョヴィなどとは対極にあるような音楽である。人生の「負け」を奏でていると言ってもいいかもしれない。

 

何故そのような音楽に、ヤングの音楽が共鳴するのか。それは、ヤング自身が、1960年代からずっと、「負け」を歌い続けてきたからであるように思う。この人は、ちゃんと「負け」たことがあるのだろう。この人の歌詞を見ると、そのことが見て取れるところが、そこかしこにある。この人は生涯、その時の「負け」を、歌い続けている、とも言える。

 

私は、人には必ず、「負け」の瞬間が訪れる、と思っている節がある。そんなことは当たり前だ、と思う人もいるかもしれない。私が思うのは、人生のどの時点で「負け」たかで、その人の人生が決まってしまう、と思うのである。

 

「負け癖」という言葉がある。負ける人は、負けることがパターン化してしまい、そのパターンから抜け出ることが出来ない、ということである。一方、「勝ち組」という言葉も、世に定着している。いい中学、高校を出、東大に現役合格し、医者や弁護士、官僚になるような人達のことである。この人達は、生涯「負け」を知らずに人生を生きるかもしれない。しかし、この人達にもちゃんと、「負け」の瞬間は、訪れるのである。その瞬間とは、「死ぬ」瞬間である。人生の最期の最期で来る、「負け」。私はこのような人達を、「勝ち組」だとは思わない。

 

ヤングは、若い時に大負けをした。そして、その後も負けたことがあっただろう。歌も格好もヘロヘロだ。ボクシングで言えば、10カウントが常にちらついている、血まみれの、傷だらけのボクサーであると言える。

 

しかし、ヤングは、簡単には負けない。それどころか、音楽業界のトップを、たった一人で走り続けている。「錆びつくよりは燃え尽きたい」。ニール・ヤングの歌詞の一部で、ニルヴァーナカート・コバーンの遺書にも引用された、有名な言葉である。多くの人が、早々に勝って、早々に錆びつく人生を選ぶ。しかし、ヤングはそんな人生を選ばない。人生の最期まで、ファイティング・ポーズを構え、真っ白な灰になるまで、ヘロヘロになりながらも、闘い続けるのである。

 

この人は、現在、79歳。今も新しいアルバムを、次々と出し続けている。個人的には、往年の輝きは、だいぶ薄れてきているな、と感じているのだけれども、そこはもう、許してやりましょう。十分闘いました。十分負けました。もう、人生の「勝ち」を、謳歌させてあげましょう。

 

この人は、本当の「勝ち組」です。