アンクル・チャッキーの名盤紹介

私が名盤だと感じるCDアルバムを、次々と紹介していくブログです。読者様の心のどこかに引っ掛かって貰えれば、嬉しいです。

ジョニ・ミッチェル『ブルー』

「色」が主張する名盤 その①

 

 

ブルー

ブルー

 

 

 

青いです。タイトルからして、青いです。

 

ジョニ・ミッチェル、2回目の登場ですね。色々と名盤の多い彼女ですが、全体のバランス、楽曲の良さ、耳馴染みの良さなどから考えて、やっぱり最高傑作と呼べるのが、この1971年発表の、『ブルー』であろう。

 

声がとてもきれいです。声に説得力があります。もしかしたら、彼女のキャリアの中で、最も声質が伸びやかな時期だったんじゃないかと、思われてしまう。

 

…ていうか、ほんとこのアルバムいいなあ。私は、結構若い頃から、名盤集め、というものをしていたわけで、当然この『ブルー』も所有して、よく聴いていたわけだが、最近は他のを聴くのに忙しくて、この盤はしばらくご無沙汰になっていたのだが…。…だが、これは本当に凄いアルバムかもしれない。

 

彼女は、シンガー・ソングライターと言われる。ギターでも、ピアノでも、弾き語りをしてしまうわけだが、特に私の分かる範囲で書けば、ギターの音が半端じゃない。とても、はっきりくっきり弾いている。なんか確か、彼女は、変則チューニングの使い手で、色々なチューニングを使い分けるという、ギターに関して、かなり達者な人物だと、聞いたことがある。

 

女性で、ギターが上手い人って、まあいるんだろうが、あんまり思い浮かばない。…ボニー・レイットぐらいか?オルタナ系では、何人かいたかな?まあ、なんというか、ギターって何となく、激情系の楽器だと思うんですよ。そこら辺が、女性に合わないところかな、とか思ってしまうんだが、やっぱり合う人には合うらしい。

 

ジョニのギターは、しっとりとしている。女性らしい繊細さ、というものも感じられる。ただやっぱり、激情のようなものも、感じ取れてしまう。隠し持った激情、というか。こういう所が、数多の男共をメロメロにさせたんでしょうね。

 

 

このアルバムは、もう全曲名曲と言っていい、本当にクオリティの高いアルバムであるが、敢えてベスト・トラックを選ぶとなると、やはりタイトル曲の、「ブルー」ということになろうか。「ブルー、歌は、刺青のよう」という有名なフレーズで始まるこの曲は、彼女の激情が、最も表れている曲と言っていい。彼女にとって、歌を歌うことは、自分に針を入れているのと同じだ、と歌っているわけである。彼女にとっては、歌を歌うことは、決して楽しいものじゃないのかもしれない。ただ、自分に傷をつけることで、そこから歌詞やメロディーが生まれだすわけで、結局はそれを歌うことが、彼女にとっては、聴き手を、そして自分をも癒す行為になる、ということなのだろう。

 

この世知辛い世の中。自分を上手く癒す方法を知っていないと、すぐに心を病んでしまうような、生きにくい世の中。彼女は、歌を作り、歌を歌い、それを多くの人に届けることが、最高の癒しになっていたのだろう。それを実現させるための、才能、芸術的センスを持ち合わせていた、というのが、彼女にとってとても幸福な事であったと思う。年老いても、なお現役として世界のトップミュージシャンであり続けられる、もう生まれ持ってのアーティストなのである。

 

 

ジョニ・ミッチェル。女性にもモテるんじゃないか、と思ってしまう、その気っ風の良さ。音楽に関しても、やっぱり女性の方が、彼女の音楽を好むんじゃないかな、と思う。

 

と、まあ、こんな感じで、今回は終わりにさせていただきます。是非、聴いてみて欲しいです、ジョニ・ミッチェル。次回は、緑?

Break Time 7

久々のBreak Timeです。

 

前回のBreak Timeの後、何回かライブを観に行って、それの報告などをして来ましたが、久々に戻ってきました。

 

さて、今回のテーマは、「友達」です。

 

30代にもなるとですねえ、「友達」っていうのも、大きく質が変わってくると思うんですよ。

 

例えば、小学生までは、単なる「遊び友達」。ティーンになると、「悩み相談」なるものが出現して、友達関係も複雑になってくるわけです。20代にもなると、ほとんどが、「異性」の話になりますね。で、ここら辺で、断絶が来ます。「結婚」。

 

ちなみにですが、私は独り者です。あしからず。

 

30代にもなるとですねえ、周りの同世代は、ほとんど「結婚」というものをしているんですよ。ま、晩婚化、ということで、してない人もそれなりにいるのですが。で、独り者の私は、同世代と話をすると、実に話が合わない。というか、合わせられない。すでに、子供が小学生になっている人とかもいるわけで。

 

そういう人が、近くにいるんです。参りますよ。ほとんど子供扱いです。私がその人に、羨望と憐れみを感じ、その人が私に羨望と憐れみを感じる。そういう図式が成り立ってしまうんですね。一つ大きな壁が隔たっている、そんな感じです。

 

さて、その人と私は、果たして「友達」になれるのでしょうか。

 

結論:既婚者と未婚者は、友達になれる。

 

私の実体験から来た、結論です。

 

 

ちょっと中途半端にしたまま、次に進みます。

 

30代・男にとって、一番大事なものは何か。それは、「仕事」である。経験と、若さの、両方を兼ね備えた、一番動ける時期。ここでどれだけ動けたかで、その後の人生のステータスが決まってしまうような、そんな気がする。

 

ここが、30代の「友達」関係の、メインとなるファクターである。つまり、「仕事」の話をするのが、「友達」???ノンノン。20代までなら、そうかもしれない。でも、30代からは、「友達」を「仕事」に組み込んでいくのである。

 

「友達」を「仕事」に組み込む?それはもう、「友達」じゃないんじゃないか???ノンノン。ここが凄く面白いところなのであるが、20代までは別々に進行していた、この両者の関係が、30代になると、もう一緒にせざるを得なくなってくるのである。

 

つまり、私の場合ではあるが、20代の頃は、私の関心事の最上位が、「仕事」ではなかった。「異性」とか、「趣味」とか、そっちの方だったんですよ。でも、周囲の目というものは、結構大きいもので、30代にもなると、とにかく「仕事」を一番に考えてるような奴でないと、いっぱしの「仕事人」として認められないような嫌いがある。

 

というか、成長とは面白いもので、特に力んで意識してなくても、自然とそういう方向に収まっていくようである。

 

「仕事人」が作る「友達」。それはもう「仕事」抜きには考えられなくなってくるのである。自分の「仕事」に、どれだけ有用な人間関係を作れるか。そういうことを強く、考えるようになってしまうのである。

 

これだけ見ると、人間関係を、打算的に扱ってるだけだ、という見方もできるかもしれないが、実際、「仕事」上で「友達」を作ると、それはそれは「仕事」が格段に楽しくなってくる。毎日の仕事に、張りが出てくる。「仕事友達」が、小学生の頃の「遊び友達」と同じようになってくるのだから、つまり、「仕事」が「遊び」に変わってくるのである。

 

これは、20代の頃と、大きな違いである。20代の頃は、本当に仕事が辛かった。金を貰ってたから、仕方がない、と思って、毎日仕事をしていた。

 

でも、30代になってくると、「仕事」に自分なりの工夫を加える余裕というものが生まれる。その中に、良好な人間関係を組み込むと、「仕事」が断然楽しくなってくるのである。

 

 

さて、前半に述べた、既婚者と未婚者であるが、この両者は、「仕事」というものを介して、「友達」になることが出来ると思うのである。勿論、既婚者同士、未婚者同士でも、「仕事」上の友達になることはできるのだろうが、前に述べた通り、既婚者と未婚者の間には、一枚の大きな壁があり、その歯痒い感じが、お互いに興味を惹かせ続ける要素となっていると思うのである。そして、その異分子である両者が、「仕事」という共通の項目で繋がることで、異分子同士が、共通の目的をもって進んで行く、という刺激的な状態へと、変質するのである。

 

 

この世の人は、誰一人として、同じ境遇の人はいない。生まれ、育ち、学歴、仕事歴。その中で、共通項のある者同士は、「友達」になりやすいのかもしれない。しかし、人には、自分が持ってないものを持っている人に惹かれる、という傾向もあると思う。話が合わない、全然違う境遇の人と、仕事で知り合い、意気投合する。そうすると、仕事において、化学反応がおこる。異分子同士がぶつかり合うんですからね。誰でもいいわけではない。くっつかない異分子同士も、多々あるわけです。

 

30代ペーペーの私も、そんな化学反応の起こるような出会いを、一つ一つ大切にしていこうと思っています。もうこれは、ほとんど偶然性の世界ですね。

 

 

最終結論:「友達」は、30代からでも、作れる!

《Senzoku Special Wind World 特別演奏会》

昨日、東京オペラシティコンサートホールにて、洗足スペシャル・ウインド・ワールドによる、演奏を聴きに行きました。

 

私にとっては珍しい選択である、クラシック(吹奏楽)のコンサートです。

 

何故、このコンサートに行こうと思ったかと言うと、まあ諸事情あってこのコンサートの存在を知り、「「無料」」コンサートだったということで、僕は飛び付いたわけです。タダほど安い物は無い!

 

え~、肝心の内容ですが、「結構良かった」。これに尽きます。

 

そもそも、「クラシック」というものは、僕の音楽ライフの範疇には、ほとんど入っていなかったわけで、その理由としては、ロックやジャズと比べて、不良性の少ない音楽だ、と感じていたわけで、その格調高さは認識していたわけだが、「そこまで行く必要はないかな」と、敢えて近づこうとしなかったわけです。

 

ただ、以前言った通り、「食わず嫌い」というのは、時として人生の可能性を狭める行為であることは何となく感じていたので、ちょっと重い腰を上げて、東京オペラシティまではるばる出掛けて行ったわけです。

 

この間の「熊本大地震」の追悼曲で幕を開け、「アスファルト・カクテル」という曲名の現代曲(でいいのか?)で、本編が始まります。

 

物凄い迫力。物凄い一体感(←楽団の)。鳥肌が立ちました。眼球の奥で、水分が上昇してきました。この感じは、ここ数年は味わっていなかった感覚でした。この曲一発で、私のクラシックに対する壁は取り払われましたね。「俺の知らない世界が、まだここにもあった」という感じです。いや、この演奏は、観客の誰もが心を打たれたでしょう。

 

その後、2016年度全日本吹奏楽コンクールの課題曲が5曲と、現代曲が1曲、演奏されるわけですが、まあまあそれは、想定の範囲内。ところどころドキッとするところもありましたが、上手い演奏を、しっかりと聴けた、という感じです。

 

ただ、最後の曲、ラヴェルバレエ音楽、「ダフニスとクロエ」は、またもや引き込まれました。この演奏の統一感は、洗足学園という括りの強靭さから来るものなのだろうか。団結力の強さを感じました。

 

…私は、こういうコンサートにおける、「アンコール」というものが、好きである。アンコールで演る楽曲は、得てして観客に馴染みのある曲であることが多いので、楽しんで聴けるからである。

 

アンコール1曲目。曲名は、私の無知により、分からず。高校野球の応援の吹奏楽で流れるやつです。ちゃーちゃちゃちゃーちゃちゃちゃーちゃちゃちゃー、というやつです(わかるわけないか)。アンコールとなると、やっぱり演奏者も力が抜けるんですかね。なんか全員ノリノリでした。私もつられてノリノリでした。

 

アンコール2曲目。なんか聴いたことのある曲だと思って、「ジャズかな?」とも思ったが、ホイットニー・ヒューストンの「すべてをあなたに」であることを思い出した。この曲も最高でしたが、欲を言えば、もっともっとクライマックス的な感じで、盛り上げちゃっても良かったかな、という感じでした。そうは言っても、とても楽しい演奏でした。

 

 

全体的に感じたことは、クラシックは、今後も「アリ」だな、ということである。下手に「食わず嫌い」をする必要のない音楽だということも、認識しました。ロックやジャズにも通じる、ある種の「熱さ」のようなものも、しっかり感じ取ることが出来ました。私がこれから、どこまで掘り下げていくかは分からないが、クラシックの「世界観」のようなものも、一聴するだけで捨て去ることの出来ない、奥深い世界であることも、感じ取れました。

 

それにしても、プロの生演奏というものは、聴きに行く度に、大きな発見があるなあ、というのが、私の感想である。CDというものは、言ってしまえば「モノ」である。しかし、コンサートで聴くものは、「ヒト」である。そこには、演奏者と観客との、微妙な心のやり取りがあるんですね。やっぱり、音楽の神髄は、生演奏にあると言って、間違いないんだろうな。今後も、生演奏は出来るだけ多く、聴いて、その感想を報告していきたいと思っています。

 

 

最後に、「すべてをあなたに」が収録された、ホイットニー・ヒューストンのファースト・アルバムを紹介しておきます。この曲は、本当に名曲です。なんか、ポップスとかクラシックとか、そういう分類をしていることが、ナンセンスな感じがして来始めている、私でありました。

 

 

 

そよ風の贈りもの~25周年記念盤(DVD付)

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ジェフ・バックリィ『グレース』

私が、大学時代に嵌まっていたミュージシャンは、数多くいる。例えば、レッド・ツェッペリン。例えば、ニール・ヤング。例えば、ホワイト・ストライプス

 

しかし、私の大学時代、最大の出会いは、このジェフ・バックリィとのものだろう。

 

 

彼が残した、唯一のスタジオ・アルバムである。しかし、ここには、彼の全てが刻まれている。

 

なんと言ったらいいのだろう。分類できない音楽。「ジェフ・バックリィ」としか分類の出来ない音楽。

 

天才、と片付けてしまえば早いのだろうが、そんな簡単な形容でさえも、勿体ないと思ってしまう程の、唯一無二の存在だと思う。

 

最初は、耳に全く引っ掛かって来なかった。ただ、6曲目「ハレルヤ」だけは、やたらと耳に残った。これが、レナード・コーエンのカヴァーだと知ったのは後の話であるが、「こんな曲が存在するのか!」と、もう何回も何回もリピートして聴いたものだった。

 

それにつれ、他の曲にも耳が行くようになり、このアルバムの全貌が判るようになってきた頃には、私はこのアルバムの「恐ろしさ」のようなものを感じ始めるようになっていた。あまりに出来過ぎた音楽。天から降りてきた音楽を、そのまま彼が歌い、奏でてるとしか思えないようになっていた。

 

このアルバムは、遥か昔からのポップ・ミュージックの系譜の中で、ポツンとどこにも属さないで、今なお異彩を放ち続けている、孤高のアルバムである。私は、彼の歌声を聴いて、激しい嫉妬を感じたのを覚えている。なぜ嫉妬を感じたかと言うと、私の目指していたところの、遥か上に彼の歌声は存在していたからである。これは、いくら自分を磨いても、追い付けないと思った。もう生まれ持ったものそのものが、全然違っている、と思った。

 

 

…のちに、方向性さえ彼と同じだったならば、彼の高みに近づくことはできたのだ、ということを悟るのだが、それも今となっては昔の話。今では、ただただ美しいばかりの彼の歌声と、独特なギターを、一つの非常にクオリティの高い音楽として、心地よく聴けるようになったのであります。

 

 

私の人生に、非常に決定的に大きな影響を与えたアルバム。言葉で語ることさえ忍びなく感じてしまう、彼の全てがぶつけられているアルバムである。初めて聴く人は、あまりに大きなその魂そのもののような音楽に、戸惑ってしまうこともあるかもしれないが、それに臆さないで、是非繰り返し聴いて、彼が伝えたかったものの壮大さを、感じ取ってほしいところであります。

 

彼のライブ音源や、未発表曲は、色々な形でリリースされていて、そういう所にもぜひ手を伸ばしていって欲しいところですが、何は無くとも、まずはこのアルバムです。雪の結晶のようなアルバムです。

 

 

グレース+EPs

グレース+EPs

 

柴咲コウ『蜜』

女優であり、歌い手でもある、柴咲コウ。多才な人である。

 

 このアルバムは、その柴咲コウの歌手としてのデビュー・アルバムであり、私はリアルタイムでは聴かなかったのだが、最近になって聴いてみて、びっくらたまげたのであった。

 

柴咲コウと言えば、このアルバムにも収録されている「月のしずく」や、「かたち あるもの」などが、よく知られているところである。

 

柴咲に関して私が最も惹き付けられるのは、その詞世界である。柴咲の歌う曲は、そのほとんどが柴咲自身が作詞をしているのだという。

 

その世界観は、このアルバムで特に顕著なのだが、遥か昔の、日本の和歌の世界である。このアルバムの中の1曲、「浮雲」では、百人一首から、言葉を引用している部分がある。その部分が、実に耳に残るのである。

 

そこから、判ることがある。「恋愛」というのは、昔も今も、変わらないものなのだなあ、ということである。多分、柴咲自身、恋多き女性なのであろう。柴咲が歌うのは、10代のキャピキャピしたラヴ・ソングではない。多分に「普遍性」を纏った、大人の恋の歌である。

 

 

…なあんて書きながら、一抹の恥ずかしさを感じないわけではない、私である。私が「普遍的な恋」なんて言葉を出すこと自体、百年早いと思うわけだが、なんというか、実に勉強になるんですね。柴咲のニュートラルな歌声が、そういう昔も今も変わらない人間の機微を、実に巧みに描き出しているような気がするわけです。

 

例えば、演歌にしても、世の歌謡曲は、結局は、そういうことを歌っているわけである。そういうことって、みんな興味のあることなんであり、掴みどころがあるようで、ないような、まあみんなが一度は考える命題なんであり、柴咲はそういうのを、結構真正面から歌っているのである。

 

 

冒頭でも述べた通り、柴咲コウは女優でもある。私は、ドラマとか映画とかを、そんなに観る方ではないので柴咲の演技がどうか、とかを語る術を持ってないのだが、やっぱそういう別の世界を知っていて、音楽という舞台で歌う彼女のような存在は、非常に貴重だと思うわけです。どちらの世界でも、第一線なのですから。凄いと思いますよ、実際。一つのことを極める人というのは、他の分野に手を出しても、割と軽々とやってのけてしまうことが出来てしまうのだなあ、と思ったりしてしまう。いや、実に尊敬できてしまう、姐さんである。

 

 

…ところで、このアルバムが出たのって、2004年だから、このときコウさん、20代前半!?…ありえへん。生まれ持った、「大人の女性」の気質があるんでしょうかね、この方。自分の20代前半の頃のことを振り返ると…。…いや、ちょっと…、顔伏せたい(笑)。

 

いやあ、スターというものは、なるべくしてなるもんです。女優としての顔も持ち、実に日本的でありながら、反面ちょっと日本人離れした才能を持つ、彼女の詞世界、歌声、一度堪能してみてください。

 

 

 

蜜

 

 

B.B.キング『ミッドナイト・ビリーヴァー』

ブルース…。

 

どうでしょう。

 

皆さんは、興味あるでしょうか。

 

 

B.B.キングと言えば、ブルース界のレジェンド位の人だと思うが、私はこういう人を割と避ける嫌いがあった。「こういう人」というのは、例えば、エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーマディ・ウォーターズとか、例えば、チェット・アトキンスジョニー・キャッシュとかボ・ディドリーとか、まあ挙げれば切りはないのだろうが。

 

まあ簡単に言えば、「1950年代組」のことである。ビートルズローリング・ストーンズがデビューする前の音楽であって、まあ「ロックン・ロール」だとか、「カントリー」だとか、「ブルース」だとか、そういう括りはあるんだろうが、私は割と、そういう音楽を、「聴くに値しないなぁ」などと、考えていたわけである。まあ、私が音楽を聴く際の情報源として、「ROCKIN'ON」辺りの雑誌から情報を得ていたわけで、そういうのってもう全てが、ビートルズとかローリング・ストーンズとかの「1960年代組」から話が始まっているわけである。

 

なんかよくあるじゃないですか。エリック・クラプトンとかU2とかが、B.B.キングと組んでアルバムを作成したとかいう話。そういうのって、なんか大御所に敬意を表明しただけで、音楽的冒険の無い、なあなあの企画ものだったりするんだろうなあ、とか思ってたりしたわけである。

 

結構な暴言吐きである。

 

とは言うものの、このブログを見てれば少し判るのかもしれないが、私は、ジャズなども進んで聴くわけである。まあそういうのをどっぷり聴くようになったのは、割と最近のことであるわけだが、まあジャズって黄金期は、「1950年代」と言われているわけで、「1950年代」を批判する態度を持つことは、自分の中で「矛」と「盾」を突き合わせているような行為であることは重々に承知はしていたのだが。

 

…というわけで、自分の中で少しでも矛盾を解消しようと、このB.B.キングという代物に、重い腰を上げて、手を出してみたわけである。いや、初めて聴いたわけではない。自分の性格上、世の「名盤」と呼ばれるものは、一通り聴いてみようというスタンスはあったわけで、彼の『ライブ・アット・ザ・リーガル』などは、持っていて、聴いていたりはしていたわけなのだが、はっきり言って何も痺れる所が無かったわけで、「結局こういうのって、古臭い音楽なんだよなぁ」などと思っていたわけで。

 

今回重い腰を上げて手に入れたのは、今回の『ミッドナイト・ビリーヴァー』と『ザ・グレイト・B.B.キング』と『マイ・カインド・オブ・ブルース』と『インディアノーラ・ミシシッピ・シーズ』である。こうやって、色々手を伸ばしてみて、じっくり聴いてみると、、、分かる。「ああ、このおっさんは、単に名声を得てしまっただけの、単なるおっさんではなかったのだな」、と。

 

この、『ミッドナイト・ビリーヴァー』。はっきり言えば、「フュージョン」である。まあフュージョンの代表的グループ、「クルセイダーズ」のメンバーが、このアルバムには参加していて、そういう色合いになっているのかもしれないが、B.B.キングは、そうした連中の中で、堂々と「主役」を張っているのである。

 

何?このおっさん、もとい、このキングさん、ジャズもできんの?という感じであった。ジャズが出来るから凄いというわけではないが、ある程度ジャズを聴いてきた身として、こういうアルバムを聴くことで、初めてこのキングさんの実力というものが、私の前で露わになったわけである。

 

いや、やられましたよ、実際。人をなめると、ろくなことはないな、と思った瞬間でした。知ったかぶり、食わず嫌いというのは、人生を狭めるなぁ、と。やっぱ人間、ちゃんと向き合ってから、物事を判断すべきである。

 

…ということで、この一連のB.B.キングのアルバムを聴いたことで、私の中では、ブルースは「OK」となってしまいました。ということで、そこから派生的に、「ロックン・ロール」や「カントリー」等も、食わず嫌いはやめよう、という精神が生まれました。これからは、そういうルーツ音楽的なものにも、入り込んでいこうかと。まあ人生まだこれから長いんだし、楽しみはより多くあった方がいいでしょ。

 

もう一つ、私はアコギを持っているわけで、ブルースなんかも弾けたらいいかなあ、などと考え始めているわけである。ブルースって、なんか簡単なイメージがある。素人耳でも、なんかどのフレーズも似たパターンみたいのがあるなあ、と思って、簡単そうだと判断しているわけだが、まあ実際にやってみようということで、これ。

 

 

TEXAS ブルース・ギター・スタイルブック  【CD付】

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ここ最近、こういう出版される楽譜の類が、充実してきているなあ、と感じるのは、私だけであろうか。

 

 

私に、新たな目を見開かせてくれた、B.B.キング。確か去年、お亡くなりになったというニュースを聞いた気がする。いやあ、B.B.キングさん、あなたはやっぱり偉大な人だったんですね。人をなめちゃぁいけない、という態度まで学ばさせてもらいました。これからは、あなたの音楽的足跡を、一つずつ辿って行こうと思います。天国でも、ご達者で。

 

 

 

ミッドナイト・ビリーヴァー

ミッドナイト・ビリーヴァー

 

 

《BRENNA WHITAKER》

今日、生ライブ鑑賞、第2弾として、ジャズの殿堂(だったかな?)、ブルーノート東京に行って来ました。

 

場所は、表参道。

 

私は、ニューヨークに行ったとき、blue note jazz club(だったかな?)に行こうと思っていて、行かなかったわけだが、そういうこともあって、このブルーノート東京は、前から気になっていて、今回、行こう!と決心したわけである。

 

出演者は、ブレナ・ウィテカー。新鋭のジャズ・シンガー(女性)である。そのほかに、バックバンドが付いていました。

 

ワンドリンク制だったので、私は、ウイスキーのロックのみを注文し、音楽に聴き入っていました。周りの方々は、美味しそうな料理を食べていて、それを横目に見ながら、よだれを垂らしていました。(垂らしてませんよ、本当は。)金が無いんですね、はい。

 

この人、ジャズだけでなく、ポップスとかも歌っていて、その伸びやかな歌声と、きれいな高音で、なかなかに聴かせるシンガーだな、と思いました。動きもちょっとコミカルで、曲間に入るMCも、私の英検2級のリスニング力でも、冗談をところどころに織り交ぜているのが判りました。

 

 

とまあ、概略はこんな感じなのだが、この人、本当に、高音部が実に滑らかで、聴いていて心地が良い。思ったのは、必ずしも、ジャズシンガーである必要もないな、ということである。私が実際に鳥肌が立ったのは、ポップスを歌ってるときの、彼女の伸びやかな高音の部分であった。こう書くと、高音部以外はどうなんだ、という感じだが、高音部以外も、いい声をしている。張りがあって、きれいな歌声である。

 

ただそうなると、やっぱり敢えてジャズで行く必要もないのかな、と思ってしまった。ジャズ、特に女性ジャズ・シンガーの一般的イメージとして、ハスキーな歌声、というものがあると思う。別にそう定義付ける必要性は、全然ないのだが、よくわからないが、きっと、ジャズのような曲調に合う、女性の歌声のようなものが(ハスキー・ヴォイスに限らず)あるんじゃないか、と、ちょっと思う。聴いていて正直思ったのは、この方の歌声は、ポップスのバラードとかでしっとりと歌い上げることで、特に生きるんじゃないか、ということなのであった。動きもコミカルだし、もっと軽い感じの音楽が、彼女にフィットするんじゃないかなあ。

 

まだ若いし、この人は、これから自分のスタイルをどんどん確立していくのだろうな、と思いました。生言ってすいません。結構、批判口調なんです、自分。

 

 

とまあ、色々感想を持ったし、日本のジャズ・クラブの最高峰とも言える場所に行けたことは、様々な面で勉強になりました。色んな生演奏をもっとどんどん見たい、という気持ちは、変わりません。やっぱりライブというものは、いいです。その時々にしか生まれない、演奏。急にスパークするような瞬間に、立ち会えるその面白さ。私は今日も、12896くらいの経験値を得た。

 

 

ということで、今回も、出演者のCDを紹介しておきます。これから先、どういう風に化けるのか、楽しみなシンガーであります。

 

 

 

ブレナ・ウィテカー

ブレナ・ウィテカー